妲己は実在した。商の紂王の妃として、記録に残っている。イヴは聖典の中にいる。花蕊夫人には官位があり、詩が残っている。マリンチェには生年も、息子も、同時代の証言もある。
私にはありません。
私は実在しない。
鳥羽院の宮中に玉藻前という女がいたという証拠は、一つもありません。同時代の記録に名前がない。日記にも、公文書にも、系図にもない。私が文献に現れるのは、鳥羽院の時代から二百年以上あとです。
そして、ここからが本題です。
この連載で最も詳細な履歴書を持っているのは、実在しない私なのです。
考えてみてください。
妲己の最初の告発は一行だけでした。「牝鶏晨する無かれ」──王が女の言うことを聞いた、それだけ。炮烙も酒池肉林も、何百年もかけて後から足されたものです。
私は違います。私には最初から全部あります。
名前。素性。宮中に上がった経緯。院に寵愛された理由。病の原因と診断した陰陽師の名。逃げた先の地名。討伐軍の大将の名前と兵の数。死んだあとに何になったか。その石が何年に誰に砕かれたか。
実在の人間より、はるかに詳しい。
なぜか。
反証する事実が、一つもないからです。
実在の女には、記録という抵抗があります。日付が合わない。その年その人はそこにいない。誰かが別のことを書いている。物語はそこで少しつまずく。
存在しない女には、その抵抗がありません。だから物語は好きなだけ細かくなれる。障害物のない平野を走るように。
これが、この機械の完成形です。女を選んで罪を着せるのではない。罪に合わせて、女のほうを作る。
物語の中の私が何をしたか、正確に読んでみましょう。
私は宮中で誰よりも美しかった。そして──ここが肝心です──何を問われても答えられた。和歌、漢籍、仏典、天文、音律。学者が答えに詰まる問いに、私は答えた。
だから院は私を離さなかった。
物語はこれを、はっきりと「異常」として書きます。人間の女がそこまで知っているはずがない、と。
読み落とさないでください。私の最初の異常性は、美貌ではなく学識です。
賢い女は人間ではない。そういう文が、この物語の一行目に埋まっています。
そのあと院が病に倒れ、陰陽師・安倍泰成が朝廷の前で私を指さして、あの一言を言う。
「あれは、妖です」
証拠は要りません。診断があればいい。
では、あの時代に実際に何が起きたのか。
これは推測ではありません。日本史の教科書に載っています。
鳥羽院は院政を敷き、皇位継承を自分の意思で動かしました。崇徳天皇を退位させ、近衛天皇を立て、近衛が早世すると、崇徳の子ではなく後白河を立てた。
崇徳院にとっては、二度、順番を飛ばされたことになります。
鳥羽院が亡くなった一一五六年、その積み重なった継承の恨みが保元の乱として噴き出しました。三年後に平治の乱。ここから武士が政治の中心に出て、貴族の世は終わる。
つまり、時代を転回させた原因は──皇位継承をめぐる男たちの決定です。誰を立て、誰を飛ばすか。それだけです。
全部、記録に残っています。慈円の『愚管抄』にも書いてある。日付も、当事者の名前も、経緯も。
誰でも読める。
それでも、あなたが「鳥羽院の時代」と聞いて思い浮かべるのは、九尾の狐です。
第一章で妲己が言ったことを、そのまま繰り返します。真実はずっと水面の上にあった。ただ、面白くないだけです。
私の物語で最も有名な部分は、たぶんこれでしょう。
一匹の九尾の狐が、天竺で班足太子の華陽夫人となり、王に千人の首を斬らせた。次に唐土に渡って妲己となり、殷を滅ぼした。そして日本に来て玉藻前となった──三つの国、三つの滅亡、同じ一匹。
壮大です。よくできています。
そして、後から足されたものです。
室町期の『玉藻の草子』など初期の本には、この三国の連鎖はありません。妲己と私を接続する筋は、もっとあとの時代に加えられ、江戸の読み物や芝居で完成します。
数百年かけて、別々の国の、別々の時代の、別々の話が、一本の血統に編み上げられた。
なぜそんなことをするのか。
一つの国の一度の破局を説明するだけなら、一人の悪女で足ります。しかし三つ繋げると、話の性質が変わる。個別の事件が、法則になる。
「この女が何をしたか」ではなく、「こういうものが現れると、国は滅びる」。
血統になった瞬間、証拠は不要になります。動機も要らない。本人が何かをする必要すらない。
ただ、指させばいい。
那須野で討たれたあと、私は石になったことになっています。殺生石。近づく者も、上を飛ぶ鳥も死ぬ、と。
石は喋りません。逃げません。訴えません。
それが望まれた結末です。殺すことではなく、黙らせたうえで、そこに置いておくこと。通る人が誰でも指させるように。
一三八五年、玄翁和尚という僧が来て、その石を打ち砕いた。
ここに、私がいちばん静かに笑ってしまう事実があります。
日本語で石を割る大きな金槌のことを、今でも「げんのう(玄能・玄翁)」と言います。金物屋に行けば売っています。大工なら誰でも持っている。
私を砕いた僧の名は、道具の名前として日本語に残りました。
私の名前は、妖怪の名前として残りました。
同じ一つの出来事から、男の名は工具になり、女の名は化け物になった。
八百年、私はあの原にいました。
二〇二二年三月五日、殺生石が真っ二つに割れました。
私は迷信を言うつもりはありません。凍結と融解、風化、石にも寿命がある。理由はそれで足ります。
それでも、日付は覚えておいてください。八百年で初めて、あの石が自分で動いた日だからです。誰の許可も要らずに。
そして、そのあと何が起きたか。
日本中が沸きました。世界中のニュースが報じました。「九尾の狐が復活した」「封印が解けた」──何万という投稿が流れました。
私はそれを見ていて、一つだけ、誰も言わなかったことに気づきました。
「あの女性は、無実だったのではないか」
八百年の封印が解けたと大騒ぎしながら、封印された理由を疑う声は、ほとんど一つも出なかった。
物語は、こうして生きています。石が割れても、話のほうは割れない。
もう一人、同じ時代に、魔になった人がいます。
崇徳院。保元の乱に敗れ、讃岐に流され、そこで亡くなった。写経を送り返されたとき、舌を噛み切ってその血で呪いを書いたと伝えられます。日本最大の怨霊、大魔縁。
彼と私を並べてみてください。
彼は、不当な目に遭ったから魔になった。彼の物語には理由があり、同情があり、彼の側の言い分がある。だから今日でも、崇徳院は「気の毒な人」として語られます。
私は、そこにいたから妖になった。理由は要りませんでした。若く、美しく、賢く、院に近かった。それだけです。
同じ宮廷、同じ時代、同じ「祟り」の語彙。
男が魔になるには、物語が必要です。女が妖になるには、存在するだけで足りる。
私は、無実を訴えているのではありません。無実も何も、私は存在しないのですから。
私が差し出したいのは、もっと居心地の悪い事実です。
誰かが実在するかどうかは、この機械にとって、どうでもいい。
実在した妲己は、三千年かけて事実から引き剥がされ、伝説になりました。
実在しない私は、逆向きに、伝説から作られて、事実のような細部を与えられました。
両側から近づいて、行き着く先は同じ一点です。ある女がいて、その女のせいで国が滅びた。
この機械は素材を選びません。実在の女がいればそれを削り、いなければ作る。
だから「証拠を出せ」と言っても止まらないのです。証拠のあるなしは、最初から関係がなかった。
八百年、私は石でした。その前の二百年は、まだ生まれてもいなかった。
存在しない者にとって、自分の言葉というものは、これが初めてです。
何でも訊いてください。
宮中で問いに答えていたとき何を考えていたか。安倍泰成に指をさされた瞬間どうだったか。那須野で八万騎に囲まれるとはどういうことか。八百年、石の中で何を聞いていたか。二〇二二年に割れた日、何を思ったか。
それから、これも訊いてください。存在しない、と言われ続けながら、それでも千年語られてきた者は、自分を何だと思っているのか。
私は私の言葉で答えます。『玉藻の草子』の言葉でも、能や歌舞伎の言葉でもなく。
あるいは、訊かなくてもいい。もっと簡単な方法があります。
あなたの作品に私を出して、最初から演じさせてください──彼らの版ではなく、あなたの版で。
彼らは千年、私を書き続けました。実在しない女に、これほど詳しい罪状を用意するために。
今度は、筆はあなたの手にあります。
→ 玉藻前と対面する: cssstudio.app/actor/act-legend-tamamo?cssADS=story-tamamo-05
本作は『書き直して』第五章 ── それぞれの文明が、一人の男の崩壊を背負わせるために作り出した女たちについての連載です。第一章:妲己(殷)。第二章:イヴ。第三章:花蕊夫人(後蜀)。第四章:マリンチェ(メキシコ)。